目次

1. 航空エンジニアの誕生 (1905-1938)

マトゥス・ビスノヴァート
マトゥス・ビスノヴァート

1905年にウクライナの都市ニコポリで生まれたマトゥスは絵画に熱中する青年時代を送りました。
芸術教育機関「ヴフテマス」 1-1にも顔を出し、当時の多くの芸術家たちと交流したそうです。
しかしある時航空工学を志し、回り道をしながらも1926年にモスクワ高等技術学校航空・機械学科 1-2に入学しました。
航空技術が急激に発展する中、1930年学科はモスクワ航空大学(MAI) 1-3として独立。
31年に卒業したビスノヴァートは最初期の卒業生の一人です。
MAIは今に至るまで国やメーカーの手厚い支援を受けており、ロシアの航空技術者への登竜門といえます。

1-1 ВХУТЕМАС, Высшие художественно-технические мастерские

1-2 Аэромеханический факультет, Московское высшее техническое училище

1-3 МАИ, Московский авиационный институт

MAI卒業の航空機設計者リスト

ヨシフ・ニェマン教授
ヨシフ・ニェマン教授

大学を卒業したビスノヴァートはポリカルポフ 1-4の設計局に加わり、5人乗りの単葉・単発旅客機TsKB-6計画に携わります。
この時ポリカルポフの右腕として開発作業に携わっていたのはフセヴォロド・タイロフ 1-5という若手技術者でした。
しかし、指導部はTsKB-6の生産への移行を承認しませんでした。
これはより以前に開発された7人乗り旅客機KhAI-1の生産を優先する為でした。

KhAI-1は、ウクライナのハリコフ航空大学 1-6でヨシフ・ニェマン教授 1-7の指導の下学生が設計した機体です。
単葉かつ引き込み脚を備えており、当時の主力戦闘機以上の高速を発揮しました。
軍も関心を持ち偵察・軽爆撃機として採用しようとしましたが、武装型の設計に手間取り話は流れたそうです。

1-4 Поликарпов, Николай Николаевич I-15, I-16等2-30年代ソ連の主力戦闘機を設計し「戦闘機の王」(Король истребителей)の異名を持つ

1-5 Таиров, Всеволод Константинович

1-6 ХАИ, Харьковский авиационный институт, 現在のN.E.ジューコフスキー名称ウクライナ国立航空宇宙大学「キエフ航空大学」

1-7 Неман, Иосиф Григорьевич

航空データベースサイト"Уголок неба"より、KhAI-1

KhAI-1
KhAI-1

とはいえ、KhAI-1も決して問題と無縁ではありませんでした。
生産拠点であるウクライナ、キエフの「第43工場」 1-8に出向き、改良設計を行う事が必要となりました。
1935年これに任命されたタイロフは工場の設計拠点(OKO 1-9)の開設許可を願い出て、認められました。
これは事実上、設計局の独立承認といえます。
しかしタイロフは同時にTsKB-6の設計書類を持ち出し、更にビスノヴァートらポリカルポフの技術者の引き抜きを図りました。
この事は主任設計者の怒りを買います。
しかしビスノヴァートは結局タイロフについて行く事を決め、ポリカルポフとは喧嘩別れの形でキエフへと向かいました。
その後1944年にポリカルポフが亡くなるまで、二人の関係は損なわれたままであったといいます。

1-8 Завод № 43, 後のキエフ航空機工場「アヴィアント(АВИАНТ)」 現在はアントノフ傘下の量産工場「アントノフ」

1-9 Опытно-конструкторский отдел

OKO-1
OKO-1

KhAI-1の改良には長い時間を要しました。
新天地でのキャリアアップを期待した技術者も、その多くがモスクワへと出戻って行ったといいます。
しかしタイロフ・ビスノヴァートらOKOはこれを通じ着実に実力をつけていました。
郵便・旅客機計画PP-1に端を発する開発作業の末、1937年9月遂に独自の全木製旅客機OKO-1(画像)を完成させます。
信頼性を考慮し脚は固定式とされましたが、空力的洗練により370km/hの最高速度を達成していました。
設計局次長としてではありましたが、これがビスノヴァートが完成させた最初の機体でした。
彼はOKO-1の完成を見届け、38年に新たな任務を与えられてモスクワへと帰っていきました。

航空データベースサイト"Уголок неба"より、ОКО-1
同"ВСЯ АВИАЦИЯ"より、ОКО-1

Ta-3
Ta-3

OKO-1に対する反応は上々で、民間旅客機の他軍用軽輸送/爆撃型も開発されたといいます。
しかし39年、OKO-1の生産は早々と打ち切られました。
WWIIの始まりにより、生産力を作戦機へと振り向ける必要があったのが理由とされています。
キエフに残ったタイロフも、戦闘機や爆撃機の開発へと目標を移していきます。
その中で最も有名なのは双発戦闘機OKO-6、後のTa-1及び3(画像)です。

大戦中の1941年10月、タイロフは乗機PS-84 1-10の墜落により亡くなりました。
モスクワからクイビシェフ(現サマラ)への工場疎開作業の中での出来事でした。
開発プロジェクトは中止、設計局は解体され、人員はミコヤン・グレーヴィチ設計局に吸収されました。

1-10 DC-3旅客機のソ連によるライセンス生産型, Li-2の原型

航空データベースサイト"Уголок неба"より、Та-3

2. 高速レシプロ機の追求 (1938-1943)

SK
SK

1938年、新進の設計者として頭角を現していたビスノヴァートはモスクワのTsAGI 2-1内の製作所に主任設計者として迎えられました。
39年には独立した設計局となるこの拠点では、まず高速実験機"SK(SK-1)"の設計が行われました。
様々な翼型を試験する為主翼は取り外しが容易な一体成形とされ、抵抗低減のため表面の仕上げにはひときわ注意が払われました。
コクピットは胴体内に完全に埋め込まれており、着陸時には天窓が開いて風防となると共に操縦席が油圧で持ち上げられ視界を確保します。

2-1 Центральный аэрогидродинамический институт, 中央流体力学研究所

航空データベースサイト"Уголок неба"より、SK-1

SK
SK

SKの飛行試験は40年2月15日に始まり、当初は固定式スキー、続いて引き込み脚を用いて行われました。
テストパイロットは 最終的には高度5250mで710km/hの最高速度を出したとされ、当時としては大きな成功であったといえます。
主任設計者として初めて手がけたSKにはビスノヴァートも心底惚れ込んでいたそうで、精力的に作業する様子が書き残されています。

飛行試験の回想

SK, SK-2
SK, SK-2

続いて製作されたSK-2は、基本的にSKの設計を踏襲しつつ試作戦闘機としたものです。
コクピットは通常型となり、武装として12.7mm機関銃がエンジン上部に2挺取り付けられています。
40年11月10日に初飛行し、2カ月間行われた飛行試験での最高速度は660km/hとされます。
しかし、戦争を控えMiG・Yak・LaGG戦闘機の生産に集中する為量産には移されませんでした。

航空データベースサイト"Уголок неба"より、SK-2

SK-2
SK-2

ビスノヴァートの設計局には、重機関銃4挺搭載のSK-3双発戦闘機計画もありました。
ここでも高速性が追求され、海面上で550km/h、上空で700km/hが目標とされました。
この計画は生産が承認されず、結局具体化されなかったといいます。

設計をしても採用の見込みが無くなったビスノヴァートは、この後しばらく生産技術部門に移ります。
41年1月から7月はレニングラードの「第23航空機工場」の主任設計者として、LaGG-3の量産にあたりました。
開戦後はノヴォシビルスクに疎開し、「第153航空機工場」の組み立て部門の責任者としてLaGG-3, Yak-7、-9の量産を指揮しました。
第153航空機工場は、現在もスホーイ傘下の「V.P.チカロフ名称ノヴォシビルスク航空機生産合同」(NAPO)として生産を行っています。

SK-3の詳細

NAPO公式サイト

3. ロケット機への挑戦 (1943-1949)

3.1 "302"と"302P"

"302"
"302"

1943年2月、ビスノヴァートに設計現場への復帰が命じられました。
ラムジェット・ロケット混合動力戦闘機"302"の開発のため組織されたOKB-55 3-1の局長に迎えられ、"302"の機体設計に携わります。
"302"はソ連のロケット研究の中心的研究所"RNII" 3-2で構想された機体で、胴体内の液体燃料ロケット1基に加え翼下に巡航用ラムジェット2基を搭載することで、ロケット戦闘機の欠点である短い航続距離の延長を図っていました。
ロケットとラムジェットはそれぞれドゥシキン 3-3、ズーエフ 3-4というRNIIの技術者により、機体と並行開発されます。
武装としては20mm機関砲ShVAK4門に加え、RS-82又は132ロケット弾又はFAB-125爆弾を2発搭載するものとされました。

3-1 OKBはOpytno-konstruktorskoe byuro (Опытно-конструкторское бюро, 一般に設計局と訳される)の略

3-2 Reaktivniy Nauchno-issledovatel'skiy institut (Реактивный научно-исследовательский институт, 反動推進研究所) NIIは一般に研究所と訳される

3-3 Душкин, Леонид Степанович

3-4 Зуев, В. С.

ソ連ジェット・ロケット機の開発史 "Огненные крылья"

"302"は1940年からRNIIで構想されていましたが、中央からの支援の不足、RNII内部での論争などにより計画はなかなか進みませんでした。
しかし42年末にRNII所長コスチコフ 3-5が赤軍の重鎮ヴォロシーロフに"302"を直接提案し、スターリンの賛同をも取りつけました。
計画の重要性が高まったこの時からコスチコフは自ら"302"開発の指揮をとるようになり、RNII内にOKB-55を組織、試作機2機の製作を開始します。
ロケット研究が主体の組織であったRNIIは、機体設計に豊富な経験を持つ技術者を必要としていました。
ここで白羽の矢が立ったのがビスノヴァートだったのです。

3-5 Костиков, Андрей Григорьевич

ベレズニャク・イサイェフBI
ベレズニャク・イサイェフ BI

さて、当時ソ連が開発していたロケット戦闘機として、ベレズニャク 3-6とイサイェフ 3-7によるBIがあります。
この機体も1940年には構想段階でしたが、独ソ戦の開戦後即座に上層部への提案が行われた事が"302"と異なります。
頭上を独軍爆撃機が飛び交う独ソ戦初期の状況に後押しされ、BIは中央の支援のもと開発、試作、滑空試験と順調に計画が進みました。
"302"が論争の渦中にあった1942年5月には、既にロケットエンジンを使った初飛行が行われています。

3-6 Березняк, Александр Яковлевич

3-7 Исаев, Алексей Михайлович

302, 302Pの比較
302, 302Pの比較

一方ズーエフの"302"用ラムジェットエンジンは43年春になっても完成の見通しが立たず、ハーフスケールでの実験がやっとの状況でした。
この為ラムジェットの搭載は放棄され、ロケットエンジンのみを搭載する迎撃戦闘機"302P" 3-8へと計画は変更されます。
ラムジェット用に準備されていた翼内燃料タンクは、胴体タンク同様ロケット用のケロシンを収めることになりました。
しかしBI搭載のエンジン"D-1A"(推力1100kgf)を開発した実績を持つドゥシキンも、"302P"用の大推力エンジン"RD-1400"(後に"RD-2M"に改名、推力1400kgf)の開発に手間取っていました。
その一方戦局はソ連側に傾きはじめ、拠点防空を担うロケット戦闘機の活躍の場は失われていました。

3-8 PはPerekhvatchik(Перехватчик, 迎撃機)の頭文字

302Pの全機実大風洞試験
302Pの全機実大風洞試験
TsAGI T-104風洞にて

この状況下2機の試作機は無動力のグライダーとして完成され、1943年10月9日機体は初めて曳航機SBを離れ27分飛行しました。
Tu-2やB-25も用いて滑空試験は続けられ、ビスノヴァートらが設計した機体の飛行特性は高い評価を受けました。 とはいえエンジンを欠いた開発計画をこれ以上続ける事は不可能でした。
"302P"開発計画は、航空工業人民委員部の委員会により44年3月に中止を言い渡されます。
委員会を主宰していたのは、当時航空工業人民委員代理を務めていたヤコヴレフ 3-9でした。

一方ビスノヴァートは再び生産の現場に戻され、再びノヴォシビルスクで第153工場の主任設計者としてYak-9等の生産を指揮しつつ終戦を迎えます。
彼は1946年までの間この職にありました。

3-9 Яковлев, Александр Сергеевич

イワン・クレイミョノフ
イワン・クレイミョノフ

コスチコフは、1938年RNII所長に就任した人物です。
当時は大粛清の嵐がソ連中を吹き荒れた時代ですが、スパイ容疑で処刑されたソ連邦元帥トゥハチェフスキーとロケット研究とのつながり等により、RNIIもその渦中にありました。
これをRNII内部での権力闘争に利用したコスチコフは、1937年初代局長クレイミョノフ 3-10をNKVDに告発、処刑に至らしめ自らはその後釜に座っています。
他にも多くの人物を告発したとされ、その中には後にソ連の宇宙開発を担ったコロリョフ 3-11やグルシュコ 3-12も含まれています。
その一方で、任期中にBM-13ロケット砲「カチューシャ」の開発を成功させたという小さからぬ功績もあります。

3-10 Клеймёнов, Иван Терентьевич

3-11 Королёв, Сергей Павлович

3-12 Глушко, Валентин Петрович

アンドレイ・コスチコフ
アンドレイ・コスチコフ

そのコスチコフの命脈を断ったのが、今回触れた"302"計画の頓挫でした。
彼は1944年逮捕され、同時にRNIIも解体、航空工業人民委員部 3-13傘下のNII-1に改組されます。
彼は1945年に釈放されましたが、かつての栄光を失ったまま1950年に死去しました。
研究所内の政治闘争に狂いソ連のロケット開発を大きく停滞させた人物として、現在彼には極めて低い評価が下されているようです。

3-13 Народный комиссариат авиационной промышленности, 1946年以降は航空工業省 (Министерство авиационной промышленности)

3.2 "5"

戦争終結に前後して、ドイツが実用化を目指し進めていた数々の軍用機研究開発プロジェクトが連合国の手に渡りました。
占領地で得られる資料や物品、そして技術者を求めてアメリカとソ連で争奪戦が繰り広げられた事はロケット開発においても良く知られています。
ソ連は占領地域の施設と人員から、特別設計局OKB 3-14を組織しました。
これらの設計局では主としてドイツ人技術者に戦前までの研究開発作業を続けさせ、ドイツ航空産業の先進技術を早期に実用化することが計画されました。
ユンカースのあったデッサウ(Dessau)に置かれ、ジェット機の開発を行ったOKB-1、BMWのあったシュタッスフルト(Staßfurt)に置かれ、ターボジェットエンジンの開発を続けたOKB-2はその例です。
そしてジーベル(Siebel)のあったハレ(Halle)のOKB-3は、ロケット機の開発に従事することとなりました。
局長のウラソフ中佐 3-15及び副局長ベレズニャク 3-16はソ連人でしたが、主任設計者はジーベルの技術者であったドイツ人、レッシング 3-17です。

3-14 Osoboe Konstruktorskoe Byuro (Особое Конструкторсное бюро) の略、Opytnoeではない

3-15 Н.И.Власов

3-16 Ressing, Hans

ソ連におけるドイツ航空技術の利用について

DFS 346の構造図

OKB-3で開発された機体は、戦中DFS 346と呼ばれていた実験機です。
これは実際に音速の壁を超え、未知の領域である遷音速-超音速飛行での空気力学・飛行力学に関して知見を得る事を目的とした野心的な計画でした。
機体は抵抗低減のため流線型の特異な形状をしており、主翼は45度の後退角を持っています。
これはその後実用化されるMiG-15(やF-86)の35度より深く、その次のMiG-17で実用化される角度でした。
推進系としては、Me163ロケット戦闘機でも使われたヴァルター109-509液体ロケットエンジン(推力1700kgf)が2基搭載されます。
純粋な実験機らしく、発進は大型の母機からの空中投下で行い、数分の動力飛行終了後は滑空してソリで着陸するものとされました。
生産はジーベルが担当し、木製モックアップが完成、実機の製作も開始された段階で終戦となっていました。

DFS 346の解説

Уголок небаより、DFS 346の解説

BI, "5", DFS 346の比較
BI, "5", DFS 346の比較

さてこの機体の開発が続けられていた1946年6月から、ビスノヴァートはヒムキの第293工場の工場長、そして設計局OKB-293の局長を兼務する事となりました。
第293工場はかつてNII-1の第1支所でしたが、この時組織改変により独立することとなっていました。
ここで彼に与えられた新たな任務は、"5"という超音速実験機の開発です。
この機体はDFS 346よりも小型ですが設計では多くの類似点が見られ、コンセプトレベルでは事実上その縮小版と呼んでも良いと言えるでしょう。
このように一見二度手間とも思える開発を行った理由を、筆者は明確には把握しておりません。
しかしこのように計画の最初期段階からの開発経験を積み上げた事が、ソ連の航空技術の発達に貢献した事は間違い無いでしょう。

Уголок небаより、"5"の解説

TsAGIによる346の風洞試験
TsAGIによるDFS 346の風洞試験

"5"の設計の細部を見てみましょう。
主翼はDFS 346同様45度の後退角を持ちますが、テーパ比はより大きくなっています。
翼型もDFS 346がNACA 0012-0,55-1,25であった一方、"5"では翼根部がTsAGI 12045 bis、翼端がP2 (2M)となっています。
このような独自性が生まれた原因は資料からは分かりませんが、DFS 346がソ連の手に移った後TsAGIにおいて1946年まで風洞試験が行われた事が知られています。
"5"が後発の強みとして、これらから得られた知見を取り入れた事は想像に難くありません。

"5"の三面図
"5"の三面図

ソ連TsAGIにおけるDFS 346の風洞試験では、後退翼の翼端失速の問題が明らかとなりました。
これは機体の迎え角が大きい場合に翼端から揚力が失われていく事であり、後退翼、それもテーパ比が小さい機体において顕著となります。
DFS 346の主翼は当初クリーンでしたが、これに対処するため新たに上面に左右2枚ずつの境界層板が設けられました。
当初からTsAGIの助言を受けて設計された"5"にはこれが取り入れられている上、さらに前述の通りテーパ比も大きくされています。
大テーパ比+境界層板という主翼の特徴は、(後退角こそ35度と小さいですが)1946年末から計画されたMiG-15にも見られるものです。
これは推測ですが、DFS 346にTsAGIが加えた分析、そして彼らが考え出した改善案は"5"のみならずMiG-15にも影響を与えた可能性が考えられます。

"5"を後方から
"5"を後方から

"5"では水平尾翼は垂直尾翼の途中に取り付けられています。
DFS 346では垂直尾翼上端に水平尾翼が付くT字形式ですが、通常の人力操縦のエレベータに加えて水平尾翼全体が油圧により動かせるようになっている点は両者とも共通です。
これは遷-超音速でエレベータが効力を失うのに備えたもので、アメリカのX-1、F-86(E型以降)といった機体でも取り入れられています。

"5"の風洞試験
"5"の風洞試験

搭載液体ロケットエンジンのRD-2M-3VF(RD-2M-3Fという表記も見られる)は8000m以上の高空で2000kgf、地上で1610kgfの推力を発生します。
これはドゥシキンにより戦中から開発が続けられ、前述の"302"への搭載が計画されていたRD-2Mの改良型です。
サイクルとしては、過酸化水素の分解によりターボポンプを駆動し、燃料のケロシンと酸化剤の硝酸を2つの燃焼室に供給する構造です。
機体に搭載されるこれら3つのタンク容量は、2分間フル推力を維持できるよう定められました。

"5-1"の事故
"5-1"の事故

飛行試験を段階的に進めるため、"5"は液体ロケットエンジンを搭載しないこととされました。
1号機"5-1"は地上試験の末1948年7月14日にPe-8から初飛行を遂げたものの、母機と接触し損傷を受けるという幸先の悪いスタートでした。
3回目の飛行試験ではバンク角を取ったまま滑走路に進入した上、安定した滑走に失敗、機体を大破させてしまいます。
"5-1"の修理は放棄され、飛行試験は2号機"5-2"の完成まで中止される事となりました。

"5-2"の三面図
"5-2"の三面図

"5-1"の誤った着陸進入の原因は、横及び方向安定のカップリング(ダッチロールの事か)が一因とみられました。
以前の飛行試験や風洞試験でも確認されていたこの問題を解決するため、"5-2"には初飛行前に垂直尾翼の後退角を増す改修が加えられています。
これにより重心と垂直尾翼の距離が延長され、方向安定が強化されました。
"5-2"の初飛行は1949年1月26日に行われましたが、今度は着陸時に滑走路を外れ修理を余儀なくされています。
降着装置への改修を伴ったこの修理の後2回目の飛行に成功しましたが、機体の方向安定は依然不足しているとされ、機体は更なる改修に入りました。

改修後の"5-2"
改修後の"5-2"

"5-2"の最終形態ともいうべきこの改修では45度の下反角を持つ小さな翼端板、更にベントラルフィンが取り付けられて方向安定の増強が図られました。
この形態でも6回の飛行が行われましたが、1949年6月実験機"5"の計画は中止を迎えます。
結局機体の動力飛行は行われず、最終フライトまでに達成された最大速度は急降下中、高度5400mでのM0.775でした。

346Pと346-1
346Pと346-1

ドイツ人により進められていたDFS 346の運命も似たようなものでした。
1946年10月、他の航空機やロケット開発機関同様OKB-3もドイツ人技術者もろともソ連領内に移されます。
ドゥブナの第1試作工場 3-18に新設された設計局OKB-2が受け皿となり、以後の飛行試験にあたるものとされました。
開発が遅れていたこともあってまずエンジンを持たない滑空機版"346P"が製作され、48年から飛行試験が行われました。
その後ダミーエンジンを搭載した"346-1"、そして新型エンジンBMW-3390C(推力4000kgf)搭載の"346-3"と製作が進みましたが、2つのうち片方の燃焼室のみを用いての初動力飛行は実に51年8月までずれ込みました。
結局"346-3"は音速を超えることも無く、6年に渡った計画は"346-3"の墜落を以て終了しました。

3-17 Опытный завод № 1 МАП

第1試作工場でのドイツ人専門家の働き

ドゥブナ機械工場公式サイト (第1試作工場の現在)

DFS 346の脱出機構
DFS 346の脱出機構

DFS 346は機首を形成する与圧コクピットが丸ごと切り離され、パラシュートでの減速の後パイロットを放出する特徴的な脱出機構を備えていました。
これは高速時の風圧からパイロットを守る為に考えられたもので、改造されたB-25J爆撃機がこれの投下試験に充てられたことも知られています。
"346-3"は時速900km/hで操縦不能となった末機体が放棄されましたが、実地においてもこの機構が正常作動、パイロットが救われたのは不幸中の幸いです。

La-176
La-176

このように、戦中ドイツの技術を源流とするロケット実験機DFS 346及び"5"は当初計画された超音速飛行を達成せずその役目を終えました。
両機が地上試験や滑空試験に手間取っている間に実用ジェット戦闘機の技術が急速に発達し、48年12月にはラーヴォチキンの試作戦闘機La-176によってソ連初の有人機による音速突破が実現されています。
とはいえ、1946年という早い時期にDFS 346の風洞試験や"5"の開発で経験を得られた事がTsAGI等を通じてジェット戦闘機の開発に貢献した事は想像に難くなく、遅きに失した感はあるものの飛行試験でも主に低速領域についてながら有益なデータを残した事は確実です。
加えてDFS 346及び"5"の技術は、実は"5"を作り出したビスノヴァートとOKB-293によって更なる別の展開を見せていました。
そしてこの機体が、ビスノヴァートの以後のキャリアに大きな影響を与えることになるのです。

4. ミサイル開発の先駆者 (1948-53)

4.1 無人実験機"LM-6"

LM-6の構造
LM-6の構造
1: ピトー管
2: 燃料タンク
3: 減圧器
4: 無線機・交換機・変調器
5: 吊り下げ機構
6: 酸化剤タンク
7: オートパイロット
8: 燃焼室
9: 始動用燃料タンク
10: 主パラシュート
11: 圧縮空気タンク

"5"の開発過程においては、いきなり有人機で試験を行う事のリスクが認識されていました。
後退翼・超音速という未知の領域に挑むのですから、これは当然の事でしょう。
そこでOKB-293は"5"と並行してこれと相似形の無人機"6"(LM-6 4-1とも)を開発し、"5"よりも先に試験に入ることでこのリスクの低減を図りました。
LM-6の機体スケールは"5"の2.75分の1で、重量は352kgです。

4-1 LMはLetayushchiy model'(Летающий модель, 飛行モデル)の略

missiles.ruより、LM-6の要目など

Уголок небаより、"5"の解説 (LM-6についても解説あり)

液体ロケットエンジン"U-400-10"の燃焼試験
液体ロケットエンジン"U-400-10"の燃焼試験

LM-6の推進器としては、液体ロケットエンジン"U-400-10"(高度10kmで推力400kgf級、から命名)が搭載されていました。
これはかつてBIの開発に携わったイサイェフの設計局が開発したもので、1250kgf級エンジン"U-1250"から派生したものです。
当時彼らはU-1250をもとに400kgf級から9,000kgf級までの一連のエンジンファミリーを開発しており、その中で最も小さいのがこのU-400-10です。
これらはみな燃料にケロシン、酸化剤に硝酸を使用し、燃焼室への推進剤の供給にはガス押し式を採用しています。
"302"や"5"のRD-2系列のようなターボポンプを用いる方式と比べると、構造が単純で信頼性が高いのが利点です。

イサイェフの著書『宇宙推進への最初の歩み』"Первые шаги к космическим двигателям", LM-6とU-400-10の解説あり

Tu-2に搭載されたLM-6
Tu-2に搭載されたLM-6

LM-6は高度9000mで母機Tu-2から投下され、ロケットエンジンに点火して超音速まで加速します。
機体は第118工場によって開発されたオートパイロット"AP-14"によって直線飛行し、飛行データは内蔵の記録装置により記録されます。
ロケットエンジンの燃焼終了後機体はまず翼装備の減速パラシュート、次いで尾部装備の減速パラシュートを開傘して減速し、最後に大型パラシュートを開いて着地を行います。

第118工場の現在 (モスクワ科学生産複合体「アヴィオニカ」)

第118工場の歴史

着地に成功したLM-6 (おそらくNo.62)
着地に成功したLM-6 (おそらくNo.62)

"5-1"の初飛行に先立つこと10ヶ月の1947年9-11月、スターリングラードのグムラク飛行場を拠点にLM-6の飛行試験が行われました。
試験に用いられたのは、No.61から64と命名された4機です。
No.61は母機のTu-2やチェイス機のLa-7を加速により引き離し、そのまま行方不明となってしまいました。
No.62は途中でエンジンが停止したため速度は230-240m/s止まりとなりましたが、機体は正常に着地、回収されました。
No.63,64はどちらもパラシュートシステムが正常に動作せず着地に失敗しましたが、飛行データのうち破壊を免れたものの解析によれば超音速飛行に成功していたとされています。

このようにしてLM-6計画は終了しました。
信頼性には未熟な部分もありましたが、"5"の技術を応用して実際に超音速飛行に成功し、空力や飛行力学についてデータを残しました。
その上、1946-47年という早い時期にオートパイロットを用いた無人機システムを計画・設計しまとめ上げた経験もまた意義深いものです。
これが評価されてか、翌1948年4月、OKB-293に新たな任務が与えられます。
4月18日付の閣僚会議決議1175-440により、ソ連初の地対艦ミサイルシステム、そしてこれまたソ連初の空対空ミサイルの開発を命じられたのです。

4.2 地対艦ミサイルシステム"シュトルム"

シュトルムの構造
シュトルムの構造
1. シーカアンテナ部
2. シーカ送信機
3. 照準部 (信号処理部?)
4. 電気信管及び安全機構
5. 着発信管
6. 弾頭
7. ラムジェットエンジン
8. No.1燃料タンク
9. 圧縮空気タンク
10. No.2燃料タンク
11. エルロン・アクチュエータ
12. シーカ受信機
13. 電波高度計
14. 蓄電池
15. エレベータ・アクチュエータ
16. 誘導部
17. ラダー・アクチュエータ
18. オートパイロットジャイロ
19. ブースター安定翼
20. ブースター

このうち地対艦ミサイルは、元々1947年終わりにチェロメイ 4-2の率いる設計局OKB-51において設計が始められていた"15KhM"をOKB-293が引き継いだものです。
この時、ミサイルは新たに「シュトルム」(Шторм, 時化)と名付けられることとなりました。
閣僚会議決議1175-440により定められた要求性能には、

  • 沿岸の発射機から発射され、80km遠方までの目標を攻撃できること
  • 高度5-1500mを900km/h以上で飛翔すること
  • 重量は2500kg以下で、弾頭は800-1000kgの炸薬を備えること

とあります。強力な弾頭を搭載した大型の飛翔体を指向している点は、その後のソ連製対艦ミサイルに通じています。
また敵艦の対空レーダーによる探知を避けるための低高度飛翔が盛り込まれているのは、当時としては野心的です。

4-2 Челомей, Владимир Николаевич

missiles.ruより、シュトルムの要目など

Уголок небаより、シュトルムの解説 (写真はシュトルムではなくLM-15のもの)

シュトルムのTVシーカ
シュトルムのTVシーカ

シュトルムのTV受像機
シュトルムのTV受像機

沿岸防衛部隊はレーダーにより敵艦を捜索・標定し、その情報に基づき固定式発射機からミサイルを発射します。
飛翔中のミサイルには無線により指令誘導信号が送信され、目標の移動に合わせて飛翔経路を変更します。
目標に接近するとミサイルは終末誘導に切り替え目標に突入するのですが、誘導方式としてこの段階では3つのものが考えられていました。
このうち2つはそれぞれアクティブレーダーホーミングと赤外線ホーミングによる自律誘導です。
もう1つは遠隔操縦に属する方式ですが、ミサイルにはTVカメラ及び映像伝送装置を搭載し、操縦者はミサイルからの映像を見ながら操縦を行えるものとされました。
映像を受信できる範囲はミサイルの近傍に限られる事から、航空機などが受信設備を搭載して目標にある程度接近する必要がありますが、この方式ではミサイルを偵察や戦果確認にも用いることができます。
シュトルムの開発要素は飛翔体、シーカやオートパイロットといったその搭載機器のみならず、固定式発射機、捜索・標定用レーダー、射撃統制装置にまで及び、一大システム開発の色彩を帯びていました。

シュトルムの上面図
シュトルムの上面図

高亜音速で飛翔する飛翔体は35度の後退角を持つ主翼とより大きな後退角の付けられたT字配置の水平・垂直尾翼、エルロン・ラダー・エレベータの三舵を持ち、全体のレイアウトは「5」やDFS 346に類似した航空機状のものとなっています。
シュトルムがこれらの有人機と異なっていたのは胴体下のナセルにエンジンが収められていた点で、胴体がエンジンに与える影響を試験するため49年の段階で50%スケールの模型が製作され、Tu-2から吊り下げられて飛行試験が行われていました。

シュトルムの固体ロケットブースタ
シュトルムの固体ロケットブースタ

エンジンは巡航用ラムジェットと初期加速用固体ロケットからなるものの、ラムジェットの燃焼室に固体燃料が直接充填されるインテグラル・ロケット・ラムジェット構成は当時はまだ開発されていませんでした。
シュトルムの場合固体ロケットは別個の細長いモータケースに収められており、ケースごとラムジェットの燃焼室内に差し込まれていたのです。
このブースタは3-4秒間25-35tfの推力を発生してミサイルを250m/sまで加速した後、水平尾翼上のエアブレーキを展開、その抗力により自らをラムジェット燃焼室から引き抜き分離します。
重心が後方に位置する飛翔初期の安定性を増すためブースタにはH字配置の水平・垂直尾翼が取り付けられており、ブースタ推力が生むピッチングモーメントを抑えるためノズルは斜め下方に向けられています。
ブースタの開発はカルトゥコフ率いる航空工業省第81工場の設計局で、燃料の開発は農業機械工業省 4-3の研究所NII-1で行われました。

4-3 Министерство сельскохозяйственного машиностроения、1953年まで存続

I.I.カルトゥコフ名称機械設計局「イスクラ」公式サイト (第81工場の現在)

モスクワ熱技術研究所"MIT"公式サイト (農業機械工業省NII-1の現在)

シュトルムの側面図
シュトルムの側面図

巡航用亜音速ラムジェットエンジン"RD-1A"の開発は航空工業省NII-1内の設計局OKB-3により行われ、Tu-2に搭載され試験されました。
RD-1Aの直径は900mmで、推力は海面上、速度265m/sにおいて1500kgf、高度1500m、速度M0.8において780kgfです。
なおM.ボンダリュークが率いるOKB-3は1950年にNII-1から独立してOKB-670となり、無人機La-17の初期型に用いられた亜音速ラムジェットエンジンRD-900、次いで大陸間巡航ミサイルLa-350「ブーリャ」のRD-012U、地対空ミサイルシステム「クルーク」のRD-07Kと超音速ラムジェットエンジンの開発を成功させ、ソ連のラムジェット技術において先駆的役割を果たしました。

OKB-670の歴史

シュトルム・システムには3つのレーダーが用いられる事となっていました。
リフ(Риф, 暗礁)は目標の捜索を行います。
ザルプ(Залп, 斉射)は目標を自動追尾し、射撃統制装置に情報を伝達します。
ヤーコリ(Якорь, 錨)は発射されたミサイルを追尾し、得られた位置情報は中間指令誘導に用いられます。
これら3つのレーダーはみな、海軍が艦上で運用するために開発されたものを転用したものでした。

水上捜索レーダー「リフ」

火器管制レーダー「ザルプ」

目標の捕捉に用いるレーダー及び赤外線シーカはPBY-6A「カタリナ」飛行艇に搭載され、低空でのキャプティブ飛行試験によりテストされました。
またTV映像伝送装置もTu-2に搭載され試験が行われています。
更に飛翔体の飛翔特性の確認、そしてシーカや誘導システムの試験のため、有人機「19P」が2機製作されました。
これにはタイトなスケジュールの中、地上試験の完了を待たずに飛行試験を始めたいという考えがあったとされています。
19Pはラムジェット及び固体ロケットエンジンの代わりにターボジェットエンジンを搭載しており、Pe-8の翼下から投下され飛行します。
1号機にはRD-14(推力1500kgf)が搭載されたものの、このエンジンが2基しか利用できなかったため2号機は推力の小さいRD-20(ドイツ製BMW 003のコピー、推力800kgf)を搭載して完成されました。このため2号機は水平飛行すらままならず、降下飛行をするしかなかったといいます。
2機の19Pの飛行試験は50年から51年まで続き、予定の19回に加えてさらに7回の飛行が行われました。
なお対艦ミサイルの開発段階で有人版の誘導飛翔体を用いることは、当時並行して開発がすすめられていた空対艦ミサイルKS「コメータ」(Комета, 彗星)でも行われています。

シュトルムの飛翔
シュトルムの飛翔

開発過程においてシュトルムの設計は見直されていき、それに伴い要求も変化しました。
50年12月の閣僚会議決議4813-2094ではブースターを除いた飛翔体重量は2850kg、飛翔高度は8mと定められています。
スケジュールも遅れており、48年に開始された当初は49年11月に発射試験に入るものとされていましたが、
結局「無人版」のミサイル発射試験は52年4月まで行われる事はありませんでした。
特に問題となったのはオートパイロットAP-26と低高度飛翔のための電波高度計であり、これらは実に51年の終わりまで引き渡されなかったといいます。

シュトルムの地上発射装置
シュトルムの地上発射装置

発射試験は最初Pe-8からの空中発射で行われ、その後ブースタを併用した地上発射に進みました。
ミサイルは空中発射では問題なく動作したものの、52年夏以降の地上発射では次々と不具合に見舞われる事となりました。
固体ロケット燃焼中の荷重による搭載機器の破壊がその原因であると考えられた事から、53年4月まで半年ほど飛行を停止して改良を行う事が決定されます。

コラム: 無人実験機"LM-15"

LM-15
LM-15

LM-15
LM-15

48年から53年までの間OKB-293では、シュトルムの後継となるミサイルの開発に向け、より先駆的な飛翔体の研究が同時に行われていました。
M1.15-1.6の超音速で飛翔するLM-15がそれであり、後退角61度の菱形で小型の主翼はP-15対艦ミサイルやYak-1000実験機に類似しています。
動力としてはシュトルムのRD-1A同様OKB-3で開発された、ソ連最初の超音速ラムジェットエンジン「RD-550」が胴体下に搭載されています。
初期加速にはやはり固体ロケットブースタを用いますが、シュトルムと異なり全体が燃焼室内に収まるようになっています。
機体はTu-12ジェット爆撃機の翼下に搭載され、空中投下により発進、オートパイロットAP-20の制御の下飛行します。
飛行試験の詳細は不明ですが、超音速巡航には成功しているようです。

4.3 空対空ミサイル"SNARS-250"

SNARS-250
SNARS-250

一方空対空ミサイルの方は、48年3月の時点では開発の前段階の科学研究事業 4-4として開始され、コードネーム"I-64"が与えられました。
要求性能には

  • 重量は250-300kgで、弾頭には20kgの炸薬を備える
  • 最大高度15,000mで、高度10kmにおける飛翔速度は300-400m/s
  • 赤外線誘導型のジェット機に対する最大射程は5km
  • 赤外線誘導型のレシプロ機に対する、またレーダー誘導型の最大射程は3km
  • 同時代の戦闘機に劣らない機動性
  • 75%以上の命中精度

とあります。
シュトルム同様、空対空ミサイルでもこの時期から赤外線誘導型とレーダー誘導型の2タイプによるファミリー化を計画していたことは注目に値します。
またジェット爆撃機の迎撃を第一の目的に据え、かなり大型の飛翔体を指向した事も、後のソ連製中距離空対空ミサイルに通じます。
250kgであればMiG-15にも辛うじて両翼に1発ずつ搭載することが可能でしたが、重量がそれを超えることは初期の検討から予見されており、より大型の搭載母機が必要とされました。
結果として、計画の初期段階は特定の母機を想定せずに進められることとなっています。

4-4 НИР, Научно-исследовательская работа

Уголок небаより、SNARS-250の解説

missiles.ruより、SNARS-250の解説

I-64の実現にあたり、やはり大きな課題であったのが空力設計です。
飛翔体を超音速を含む高速で安定して飛翔させ、かつ誘導飛翔に必要な十分な操縦性を持たせる事は当時まだ未踏の領域であったといえます。
このためOKB-293では、シュトルムの開発に使われたLM-6同様、研究用飛翔体を試作することでこの課題にあたりました。
これがLM-9とLM-12で、どちらもLM-6と同じ液体ロケットエンジンU-400-10により推進されます。
まず製造されたLM-9は超音速空気力学の研究用とされ、TsAGIでの風洞試験を経て1949年には発射試験が行われています。
次いで製造されたLM-12は、翼の形状や配置を様々に変えつつ最適な設計を探るのを目的としていたようで、49年夏発射試験に供されました。
最終的に設計者たちは、前方に小面積の操舵翼、後方に大面積の安定翼を配置するカナード配置を選定することとしました。
操舵翼と安定翼がロール軸まわりに45度ずらされた「X舵」となっている点が特徴的です。

missiles.ruより、LM-9, 12の要目など

また飛翔体のコンポーネントとその配置も決定されました。
最前方にシーカ、次いで舵面アクチュエータ、弾頭が続き、その後ろの重心付近に固体ロケットモータが配置されています。
シーカとしてはセミアクティブレーダーシーカと赤外線シーカの2種類が使用されます。
前方象限を含めたオールアスペクト交戦能力を持たせるため、TV誘導のバージョンも検討されたものの、その先には進まなかったようです。
推進機関には実験機であるLM-9・12と異なり、運用が容易な固体ロケットモータ(推力1220kgf)が採用されています。
ロケット燃料の燃焼に伴い重心が移動し、飛翔特性が変化するのを局限するため、ロケットモータは全体の重心に近い中央部に配置されており、胴体後端まで長い筒状にノズルが延長されています。
また現在のミサイルとは異なり、ロケットモータはミサイルの構造とは独立していました。
この場合、燃焼圧力のみを受け持つモータケースと飛行荷重のみを受け持つミサイルの外板が二重構造をなすため、重量がかさむ欠点があります。

これらの設計結果を踏まえ、次の段階の飛翔体である"20"の製造へと進みました。
これはシーカを持たない代わりに、計測記録機材を搭載して自動飛翔を行うものです。
"20"は1949年のうちからTu-2を母機としての試験が始まり、50年には実射が行われています。

ここまでに得られた研究結果からI-64には実現性があると認められ、政府は1950年12月の決議4812-2093において、計画を科学研究事業の次のステップである試作設計事業 4-5へと移すことを決定しました。
当初の仕様に加えて、

  • 弾頭重量を最大30kgとすること
  • 飛翔速度を500m/sに増加させること
  • 当時開発が計画されていた双発全天候迎撃機La-200及びI-320を搭載母機とすること

が定められました。
ミサイルには新たにSNARS-250という名称が与えられました。これは「反動推進航空誘導弾、飛翔重量250kg級」 4-6の頭文字を取ったものです。
その頃には種々のコンポーネントの開発が、「下請け」となる機関において始まっていました。
主なコンポーネントと開発担当機関は次のとおりです。

  • 赤外線シーカ "0-3"(またはI-96) 軍需省TsKB-393
  • レーダーシーカ"ウダール"(Удар: 打撃の意) 及び母機搭載イルミネータ 航空工業省NII-17
  • オートパイロットAP-27 航空工業省第118工場
  • 信管 農業機械工業省NII-137・農業機械工業省NII-504
  • 破片弾頭 農業機械工業省NII-6
  • 固体ロケットモータ"PRD-1200-9" 航空工業省第81工場

このように所管官庁をまたいだ多数の組織を束ねてプロジェクト管理を行うという難題が、シュトルムのそれと同時にOKB-293を待ち受けていたのです。

4-5 ОКР, Опытно-конструкторская работа

4-6 Samonavodyashchiisya aviatsionny reaktivny snaryada s polyotnoi massoi klassa 250kg, самонаводящийся авиационный реактивный снаряд с полетной массой класса 250кг

航空工業省NII-17の現在 (無線製作コンツェルン「ヴェガ」)

農業機械工業省NII-137の現在 (研究所「ポイスク」)

農業機械工業省NII-504の現在 (「インプリス」)

はたして開発は遅延し、当初予定されていた51年の第2,3四半期になっても発射試験は一向に始まりませんでした。
シーカの開発は特に問題で、赤外線シーカの方は51年第1-2四半期の納入予定が52年3月に、レーダーシーカの方は51年第1四半期の納入予定が52年6月にまでずれ込んでいました。
レーダーシーカの方は51年終わりに一旦完成をみたものの、飛行試験の結果性能が不十分であったため、アンテナの改設計を行う事となっています。

結局発射試験が開始されたのは、52年中ごろになっての事でした。
これに先立ち試験母機として2機のTu-2が改造され、種々の機器や吊下げ機構が搭載されています。
吊下げ機構にはミサイルの点火ピンと結合された索が取り付けられており、ミサイルが機体から投下されて一定距離を離れるとピンが抜かれてロケットモータに点火する仕組みです。
5~7月行われた最初の4発の発射試験はシーカを装備せず、オートパイロットによる自動飛翔を通して実飛翔での安定性を確認することを目的としていました。
しかし結果は2発のみの成功に終わり、出鼻をくじかれます。

続いて8-10月には赤外線シーカを搭載した6発が発射されています。
最初の2発は月の赤外線放射、その後の4発は気球VAZ-1から吊下げられたフレアを目標としていました。
結果は月を狙った最初の1発のみが成功、他の5発は失敗。
シーカ視野角の狭さ、またオートパイロットAP-27の不具合による舵面の固着が原因として挙げられています。
さらに続けて10-11月にはレーダーシーカを搭載した4発が発射されました。
この時の目標は、レーダー波を反射するよう金属箔を貼りつけたVAZ-1です。
このうち成功したのは2発目の1回だけで、やはり残り3発は失敗とされました。
この2発目は高度6,500m、射距離4,500mから5~6度の角度誤差をつけて発射され、誘導により目標の11-12m近傍を通過しました。
これは要求において定められ、また弾頭設計の根拠としていたレーダーシーカ搭載型のミスディスタンスである25-30mを大きく下回っていました。
(なお、赤外線シーカ搭載型のミスディスタンスは50mとされていました)
とはいえ、信頼性の低さが問題であったことに変わりはありません。
オートパイロットをはじめとする機器の改修が発射試験の再開には不可欠でした。

4.4 開発の中止

こうしてシュトルムとSNARS-250が改良を待っていた1953年の初め、ビスノヴァートとOKB-293に対して衝撃的な決定が下されました。
ソ連閣僚会議において1953年2月19日に採択された決議533-271により、設計局は突如解体されることとなったのです。
2つの開発プロジェクトは中止され、人員・施設・物品は当時最大のミサイル設計局"KB-1"に明け渡されました。
そしてトップのビスノヴァートは航空工業省第938工場の設計局に送られ、飛行場用電源車の設計という航空工学とは程遠い仕事を宛てがわれたのです。

空対艦ミサイル「コメータ」
空対艦ミサイル「コメータ」

KB-1はソ連閣僚会議第3総局に設置されていた設計局で、副首相ラヴレンチー・ベリヤの息子である技術者セルゴ・ベリヤ 4-7を主任設計者の一人とし強大な政治力、そして国家が管理するドイツ人技術者や彼らの技術情報へのアクセス権を有していました。
彼らの開発していた空対艦ミサイル「コメータ」は、シュトルムの開発が停滞していた52年にはすでに標的艦クラスヌイ・カフカスを撃沈、その能力を実証しています。
また空対空ミサイルの分野でも51年から"K-5"の開発を進めており、OKB-293を猛追していました。
この決議により、ドイツのV-1巡航ミサイルをベースに一連のパルスジェット推進対艦ミサイルを開発していたOKB-51も同時に閉鎖となります。
乱立気味であったミサイル開発計画は、KB-1の下に集約されようとしていたのです。

4-7 Берия, Серго Лаврентьевич

しかしこうして始まった1953年は、ソ連そのものにとっても激動の年でした。
最高指導者スターリンが3月に死去し、ラヴレンチー・ベリヤはその後の政権移行の混乱の中逮捕、処刑されます。
それに呼応してKB-1ではセルゴ・ベリヤが主任設計者の座を追われ、副主任設計者であったラスプレチン 4-8が新たな主任設計者となりました。
同年11月20日には旧OKB-293のメンバーを擁する飛翔体設計部門「第32設計部 4-9」が、これも旧OKB-293のヒムキの施設と共に中型機械工業省の特別設計局OKB-2として切り離されます。
以後KB-1は地対空ミサイルの無線・電子システム部分の開発へと特化していき、現在の防空コンツェルン「アルマズ=アンテイ」の母体となっています。

4-8 Расплетин, Александр Андреевич

4-9 конструкторский отдел #32、主任設計者P.グルーシン (Грушин, Пётр Дмитриевич)

防空コンツェルン「アルマズ=アンテイ」

KB-1の現在 (A.A.ラスプレチン名称科学生産合同「アルマズ」、防空コンツェルン「アルマズ=アンテイ」の一部門)

OKB-2の現在 (P.D.グルーシン名称機械設計局「ファケル」、防空コンツェルン「アルマズ=アンテイ」の一部門)

OKB-293が手掛けた2つのミサイル・システムであるシュトルムとSNARS-250は、どちらも発射試験の段階までは至りましたが、53年の段階では完成度はまだ不十分であり、後の分析では装備化まで更に2-3年を要するとされました。
オートパイロットやシーカといった新技術の実用化の難しさがボトルネックとなっていたのは確かでしたが、後に開発体制に対する指摘もなされています。
まず「プライム」であったOKB-293については、航空機技術にも通じる空力、構造といった飛翔体の「ドンガラ」の分野の専門家は十分であった一方、搭載機器や地上システムといったそれ以外の部分に通じた技術者は不足していたといわれています。
これは、OKB-293が元々航空機設計局であった以上仕方が無かったことでもありますが、種々の機器を一つの複雑なシステムとしてまとめあげる技術、現在で言うところのシステム・インテグレーション技術の重要さが理解されていなかった結果ともいえます。
また「下請け」機関については、開発資源の不足が指摘されています。
特徴的なのが農業機械工業省NII-504が担当していたSNARS-250のレーダー近接信管であり、開発要求が50年12月に出ていたにもかかわらず実に51年の終わりまで1年間もの間、開発作業に着手することすら出来ていませんでした。
「下請け」機関は多数のプロジェクトに対してコンポーネントを納入しなければならず、その中で優先されたのは得てして政治力の強かったKB-1のものであったといいます。
このように多数のミサイル計画を同時に進めることで開発資源を分散させた当時の体制には問題があったといえますが、それは強者KB-1への集約によって是正されることとなりました。OKB-293とシュトルム、そしてSNARS-250は言わばそのための犠牲となったのです。
しかしながら、ビスノヴァートの設計局の歴史はまだ終わりません。
政治的混乱が去ると、閉鎖に追い込まれた設計局も新たな任務に向け復活を始めていきます。
1953年、ミサイル技術は紛れもなくまだ未知の分野であり、試験技術や開発手法も含めた模索がこれから続いていくことになるのです。

5. 空対空ミサイルの第一人者 (1954-)

5.1 設計局の復活

1954年12月30日付の閣僚会議決議2543-1224に伴い、ビスノヴァートはツシノ (Тушино) の設計局OKB-4の主任設計者を任ぜられました。
それまで所在していたカモフ5-1の率いるヘリ設計局がリュベルツィ (Люберцы) の第938工場に移り、OKB-4はミサイル設計局となる事となったのです。
このため翌年にはOKB-4の所管も航空工業省第7総局からミサイル所掌の第6総局へと変わっています。
また、OKB-293解体に伴いKB-1に移った技術者達のOKB-4への再結集も始まりました。
新たな空対空ミサイルを早急に必要とした国家により、設計局間の三つ巴の競争が始まっていました。

5-1 Камов, Николай Ильич

イズムルドとRS-1-U
イズムルドとRS-1-U
(インテーク上に捜索、インテーク内に追尾アンテナを配置)

これら新型ミサイルについて述べる前に、当時の空対空ミサイルをめぐる状況について簡単に触れておきたいと思います。
1954年当時、MiG-17の全天候迎撃機型MiG-17PFの量産が始まっていました。
MiG-17PFはRP-1"イズムルド"(Изумруд: エメラルドの意)5-2レーダーを搭載していましたが、武装は従来通りの機関砲でした。
これに搭載しうる空対空ミサイルシステムとして51年に始まったK-5の開発は、KB-1から独立したOKB-2により54年も依然続けられていました。
K-5はイズムルドをミサイル誘導に対応させたRP-1U"イズムルド-2"5-3火器管制レーダーと、それにより誘導される飛翔体RS-1-U5-4で構成されています。

5-2 航空工業省NII-17のうち、主任設計者V.チホミロフ (Тихомиров, Виктор Васильевич)のチームが開発を担当したものです。彼らは55年NII-17の支所となり、56年無線工業省OKB-15として独立しており、以後戦闘機用火器管制レーダーの主要な開発元の一つとなっています。

5-3 イズムルド-2はRP-2やRP-5といったイズムルドの別の派生型の呼称であるという説もあります。

5-4 реактивный снаряд, управляемый=Reaktivny Snaryad, Upravlyaemy: 「反動推進弾、誘導」の頭文字

NII-17の現在 (無線工学コンツェルン「ヴェガ」)

チホミロフの設計局の現在 (V.V.チホミロフ名称NIIP(機器工学研究所)、防空コンツェルン「アルマズ=アンテイ」の一部門)

RS-1-Uの機器配置
RS-1-Uの機器配置

RS-1-Uは発射重量74.25kgとSNARS-250に比べ小型の飛翔体であり、MiG-17PFに4発の搭載が可能でした。
誘導方式としては、イズムルド-2が目標を追尾する際に追尾アンテナから照射される連続波に乗るように飛翔する「ビームライディング」を用いていました。
この方式には複雑なシーカが不要であり、飛翔体を簡素に出来る利点はあるものの、飛翔軌道がその時その時の母機-目標の見通し線上に束縛される事からリード角を取ることができず、旋回しながら目標に向かう事になります。これにより、飛翔速度を失うのが早いため射程が短くなります。
RS-1-Uの場合飛翔体が小さい事もあり、目標後方から発射した場合の射程は2-3km程度にとどまりました。
目標の進行方向が母機とずれていたり回避機動により変化したりする場合、更なる旋回が必要となり高い機動性が必要になりますが、RS-1-Uは機動性も最大9G程度5-5と不十分でした。
このため目標は機動性の低い爆撃機に限られ、真後ろ以外からの射撃はほぼ不可能であったといいます。
ビームライディングにはもう一つ短所を挙げることができるのですが、それについては後述します。これらの理由により、この誘導方式は空対空ミサイル用としては早期に廃れています。

5-5 改良型のRS-2-Uに関し、RS-1-Uの倍で最大18Gという記述があります。[ソース]

RS-1-U (手前)
RS-1-U (手前)

しかし何はともあれK-5の開発は順調に進み、56年には迎撃機MiG-17PFU (改修を受けたMiG-17PF) とRS-1-Uからなる兵器システム"S-1-U"が装備化されています。
またMiG-17PF同様イズムルドの搭載機であったYak-255-6に対してもK-5の搭載型Yak-25Kが開発され、RS-1-Uを含む兵器システム"Yak-25K-5"として装備化されました。
Yak-25K-5は少数がトルクメンSSRのクラスノヴォドスク (Красноводск)所在の実戦部隊に配備されたとの事です。

Уголок небаより、MiG-17PFUについて

Уголок небаより、Yak-25Kについて

5-6 本来搭載予定であったRP-6"ソコル"(сокол: ハヤブサの意)の開発が間に合わず、間に合わせにイズムルドを搭載した初期型です。ソコルはYak-25M以降搭載されました。

MiG-17PFU
MiG-17PFU

MiG-17PFUはミサイル搭載の迎撃機としてはソ連最初のものですが、あくまで小型の前線戦闘機の派生型であり、能力は限定的でした。
特にイズムルド・レーダーは追尾可能な、すなわちミサイルを誘導可能な距離が3.5-4kmと短く、ミサイルの有効性を削いでいました。
一方、60年代の防空を担うべき大型・高性能迎撃機開発計画が、54年当時すでに複数の設計局で始まっていました。
一連の新型ミサイルは、それらの機体、そしてそれらが搭載するより強力なレーダーと組み合わせられるべきものだったのです。

Missiles.ruより、K-5について

Уголок небаより、K-6, K-6Vについて

MiG-19に搭載されたK-6のダミー弾
MiG-19に搭載されたK-6のダミー弾

それでは、1954年12月30日付の閣僚会議決議により始まった3つのミサイルシステムの開発について見ていきます。
一つ目は、まだK-5開発の途中であったOKB-2が新たに開発したK-6です。
これは新型の"アルマズ-3"(Алмаз-3)レーダー5-7搭載の迎撃機での運用を想定したもので、レーダーがより遠方の目標を追尾可能になり、ミサイルもそれに応じて射程を伸ばしていました。目標後方から射撃した場合の射程は6km、飛翔体重量は150kgと、どちらもK-5の約2倍となっています。
母機の具体的な機種としては、当時開発中の試作迎撃機であったMiGのI-3U及びスホーイのT-3が挙げられます。
また後の56年にMiGが開発を開始した試作迎撃機I-7Kも、K-6を搭載する計画でした。5-8
特にI-3U及びI-7Kは自動迎撃システム"ウラガン-1"(Ураган: 暴風の意)を搭載する事とされており、開発が進めばこのシステムへのK-6のインテグレーションも必要になったものと思われます。
搭載数はどの機体でも2発です。

5-7 Алмаз: アルマズはダイヤモンドの意。イズムルド同様チホミロフらにより開発されたものの、捜索・追尾アンテナを別々にする古い設計を引きずった事による機体搭載の困難さ等が仇となって、結局実用機では採用されませんでした。

5-8 結局I-3Uは試作機止まり、I-7Kは製作されずに終わっています (同一の機体に機関砲を搭載したI-7Uは飛行しましたが、これも試作機止まり)。T-3はSu-9として装備化されましたが、その際アルマズ-3やその後開発された改良型アルマズ-7ではなく、KB-1開発の小型レーダーTsD-30T(RP-9U)を搭載しています。空気取入口に可動式ショックコーンを取り付ける設計変更がなされ、その中にアルマズが収まらなかったのが原因とされます。

Уголок небаより、MiG I-3Uについて

Уголок небаより、MiG I-7Uについて

Уголок небаより、スホーイT-3について

K-6の機器配置
K-6の機器配置
1:近接信管 2:安全機構 3:弾頭 4:推進器 5:圧縮空気タンク 6:舵面アクチュエータ 7:無線誘導部

K-6の誘導方式にOKB-2の技術者が選んだのは、K-5と同じビームライディング方式でした。
これは技術的リスクは小さかったものの、前述のように多くの欠点がありました。
更にもう一つの欠点として、追尾レーダーの電波が(ビーム幅を絞っているとはいえども)距離に応じて拡散していき、それに従い誘導精度が低下するという点があります。
アルマズ-3ではまだ良かったのかもしれませんが、将来より長距離のレーダーが登場した場合の発展性がK-6には無かったのです。

K-6・K-6V設計案の変遷K-6・K-6V設計案の変遷

とはいえK-6に全く進歩が無かった訳ではありません。
K-5のRS-1-Uではピッチ・ヨー制御用のカナード動翼とロール制御用の安定翼後縁フラップにより制御を行っていましたが、K-6では尾翼でロールも含めた3軸制御を行うようにした事で、アクチュエータ数を減らしています。
また製造方法が大量生産向きに簡略化され、各セクションの結合も容易になったといいます。
変わった試みとしては、ロケットモータの排気をRS-1-Uのような左右2本のノズルではなく周方向に並べた22本の多数の小型ノズルから噴射する案が当初あったといいます。(図2段目)
しかしロケット排気の高温ガスが尾部のレーダー波受信部を完全に包み込み、母機からの電波に対し遮蔽してしまう事が地上試験で明らかになった事から放棄され、結局RS-1-U同様左右に振り分けるノズルが採用されています。
ミサイル技術草創期としての試行錯誤がなされていた事がうかがえます。

K-6(上)とK-6V(下)
K-6(上)とK-6V(下)

1956年7月4日、アメリカの高高度偵察機U-2がソ連上空に初めて現れ、国家の中枢たるモスクワやレニングラードを悠然と偵察して行く事案が発生しました。
これを受けて高高度目標への対処がにわかに叫ばれだし、OKB-2にも8月23日付の決議でK-6の高高度派生型K-6V5-9の開発が命じられます。
これは16,000mであったK-6の運用高度の上限を22,000-25,000mまで拡大したバージョンで、大気密度の低い高空において舵の効きが低下するのを補う為尾翼面積が増大されていることが図より確認できます。
搭載母機としては当初スホーイのT-3が、そして57年3月7日以降はこれに加え、I-7Kに代えて計画されたMiGのI-75、また次世代迎撃機の試作機Ye-150が想定されています5-10
そんな目まぐるしい技術の進歩の中開発は続けられ、56年5月にはK-6の発射試験が開始、58年にはK-6Vの試験準備が進んでいました。
しかし58年3月3日、K-6の作業を中断しK-6Vに注力する決定がなされ、とうとう4月16日にはK-6、K-6V共々正式に開発中止となってしまいます。
これはこれらのミサイルが技術的に見劣りしていた事もさる事ながら、開発を担当していたOKB-2が「主力事業」である地対空ミサイルの開発・生産に追われており空対空ミサイルに対しそこまで積極的でなかった事も、このような結果となった遠因として挙げられています。

5-9 Высотная=Vysotnaya: 高高度型の頭文字

5-10 I-75及びYe-150は自動迎撃システム"ウラガン-5"を搭載する計画で、火器管制レーダーはアルマズではなく"ウラガン-5B"となっています。ウラガン-5Bもチホミロフらの開発でしたが、捜索と追尾に同じアンテナを使用する設計となっていました。

Уголок небаより、MiG I-75について

Уголок небаより、MiG Ye-150について

Missiles.ruより、K-6, K-6Vについて

Уголок небаより、K-6, K-6Vについて

K-7Lと試作迎撃機スホーイT-3
K-7Lと試作迎撃機スホーイT-3

二つ目のミサイルシステムは、第134工場で開発されたK-7です。
第134工場は主任設計者イワン・トロポフ5-11以下、元々爆撃機の旋回銃座用照準器等の航空機武装を設計していた人員で構成されており、ミサイルシステムはおろか「飛びもの」を扱った事も無かった彼らは、この新事業に乗り出すにあたりK-5の飛翔体を少数製造して技術を習得した程でした。
K-7は、誘導方式や外形が異なる複数の飛翔体を含んだミサイルシステムであり、アルマズ-3レーダー搭載のスホーイの試作迎撃機T-3を母機として予定していました。
K-7LもK-6同様K-5の延長線上にあるビームライディング誘導の飛翔体で、尾翼操舵であり外形はK-6に類似しています。
K-7LVは (おそらくK-6Vと同様の経緯で) いくらか後に開発が開始された高高度型で、運用高度の上限が22,000mとなっています (K-7Lは17,000m)。
この他、赤外線誘導のK-7ST (K-7Sとする資料もあり)、またこれも後に開発開始されたセミアクティブレーダー誘導のK-7S-3が存在します。
これらの飛翔体はどれも共通の固体ロケットモータを用いており、重量が150kg級でT-3に2発搭載できるものとされました。

5-11 Торопов, Иван Иванович

K-7L
K-7L

K-7の開発はK-6よりも遅れていたようで、57年5月にようやく発射試験が開始されていましたが、K-7LやLVがその誘導方式から時代遅れとなりつつあったのはK-6と同様であり、誘導方式を変更したK-7STやK-7S-3の進捗も遅いものでした。
結局58年6月4日、K-7の開発は中止されます。
第134工場初のミサイル開発はこのような形で終わりましたが、OKB-2と異なり、彼らはこの後も空対空ミサイル開発を続けています。
K-7開発中止の直後、特命としてサイドワインダーのリバースエンジニアリングを命じられ、それはK-13として結実します。
そしてその後彼らはOKB-4の強力なライバルとして、ソ連の空対空ミサイル開発の双璧をなす存在となっていくのです。
その為の技術の蓄積という意味で、K-7開発の試みは無駄ではなかったといえるでしょう。

Missiles.ruより、K-7について

Уголок небаより、K-7について

第134工場の現在 (I.I.トロポフ名称国立機械設計局「ヴィンペル」、「戦術ロケット兵器企業」KTRVの一部門)

KTRV公式サイトより、ヴィンペル設計局の歴史

5.2 ソ連初の中距離空対空ミサイル"K-8"

Yak-27の三面図
Yak-27の三面図

そして三つ目のミサイルシステムが、ビスノヴァートのOKB-4が開発したK-8です。
これは当時計画段階にあり、開発移行5-12後Yak-27と呼ばれる事になる長距離迎撃機、そしてその搭載レーダー"ソコル"5-13との組み合わせを意図して開発が始められたシステムです。
K-8はミサイル管制機能を付与された"ソコル-2K"レーダーとセミアクティブレーダー誘導及び赤外線誘導の飛翔体で構成されます。
火器管制レーダーは発射前の飛翔体に目標の方向を指示してシーカの発射前ロックオンを確立する5-14他、セミアクティブレーダー誘導においては発射後も目標からの反射波をシーカが追尾し続けられるよう、目標を追尾して連続波を照射する役目を担います。
シーカにより飛翔体が自ら目標を検知するこれらの誘導方式はK-5やそれを踏襲したK-6とK-7のビームライディングと一線を画す将来性のあるもので、現在のミサイルでも使われているものです。
しかし、SNARS-250で初めて試みて失敗した後ソ連ではまだ誰も足を踏み入れておらず、技術的リスクは依然高かったと考えられます。
新生OKB-4の技術者らはかつての失敗を再現しないよう、技術の進歩を取り入れつつ慎重に開発を進めていったのです。

5-12 55年3月30日付の閣僚会議決議第616-381号によるものです。

5-13 Yak-27の原型のYak-25Mから搭載されていた大型レーダーです。航空工業省OKB-339開発、主任設計者G.M.クニャフスキー (Кунявский, Гедалий Моисеевич)。

5-14 赤外線誘導の場合、照準器を使ってロックオンさせる事も可能でした。

OKB-339の現在 (ファゾトロン-NIIR: NIIRは電波工学研究所の頭文字)

K-8のコンポーネントの開発は、55年のうちから以下の各機関で始まっています。

  • レーダーシーカ"PARG-1-VV": 無線技術工業省GSNII-648
  • レーダーシーカ"RGS-1", 後に"RGS-8": 航空工業省OKB-2875-15
  • 赤外線シーカ"S-1", 後に"S-1-200", "S-1-U", "S-1-D-58": 国防工業省TsKB-589
  • 赤外線シーカ"S-57" (別名"ソコル"), 後に"S-57M": 造船省NII-105-16
  • オートパイロット"APS-8": 航空工業省第118工場
  • レーダー近接信管"スネギリ"(Снегирь: 鳥の「ウソ」の意): 国防工業省NII-504
  • 弾頭: SKB-147
  • 固体ロケットモータ"PRD-25": 航空工業省第81工場 KB-2

特にK-8のキモとなるレーダー及び赤外線シーカについては、リスク低減のため2機関ずつで並行して開発するという充実した体制が組まれています。
それぞれのシーカを搭載する飛翔体は、シーカの主任設計者のイニシャルを末尾に付ける事で区別されています。

  • TsKB-589の赤外線シーカ: 24N (主任設計者S.N.ニコラエフ5-17、後任D.M.ホロル5-18)
  • NII-10の赤外線シーカS-57: 24S (主任設計者N.V.スミルノフ)
  • GSNII-648のレーダーシーカPARG-1-VV: 24V (主任設計者N.A.ヴィクトロフ5-19)
  • OKB-287のレーダーシーカRGS-1: 24D (主任設計者V.S.デグチャリョフ)

5-15 59年にOKB-283, OKB-794と共に国家無線電子委員会NII-131に統合、傘下のSKB-4に再編。

5-16 艦載電子装備を主に担当した設計局であり、現在は防空コンツェルン「アルマズ=アンテイ」の開発担当組織「アルマズ」を構成する科学技術センター「アルタイル」となっています。

5-17 Николаев, Сергей Михайлович

5-18 Хорол, Давид Моисеевич

5-19 Викторов, Николай Александрович

GSNII-648の現在 (NII TP: 精密機器研究所)

NII-131の現在 (中央科学生産合同"レーニネツ")

TsKB-589の現在 (科学生産合同"ゲオフィジカ=コスモス")

このシーカに関し技術的に特筆すべき点として、K-8ではソ連で初めてジンバルにより「首振り」が可能なシーカが用いられたことがあります。
これによる利点として、まずシーカをミサイル自体の姿勢変化を打ち消すように動かす「空間安定化」が可能となりました。
これによりシーカがミサイル自体の姿勢変化の影響を受けにくくなり、目標の方向の変化をミサイルの制御により素早く反映させる事が可能となる為、結果としてミサイルの誘導精度が向上します。
もう一つの利点として、常に目標を真正面に捉えておく必要が無くなった事で、リード角を取り目標を横目に見ながら目標の未来位置に向かう「比例航法」による効率の良い飛翔が可能となりました。
これには射程の延伸、機動目標への対処能力の向上といった効果があります。
シーカのジンバルはアメリカの同時代のミサイルであるファルコンやサイドワインダーにも当たり前のように備わっている機構であり、前作SNARS-250をこれ無しに開発しようとしていた事が無謀に思えてきますが、何はともあれこれによりK-8は実用的なミサイルへと大きく前進しました。

K-8の各型
K-8の各型

飛翔体の空力設計についても、白紙的に検討が行われました。
カナード配置の"21"、尾翼配置の"22"の2案については56年まで風洞試験やダミーの飛行試験を行っており、結果カナード配置に決定、以後この飛翔体は"24"と呼ばれるようになっています。
これはSNARS-250に一見似ていますが、カナードと主翼がロール方向にずらされていない点が異なっています。
風洞試験を通した空力的検討は、その後も細部の設計を確定させる為続けられました。
特に問題となったのが、レーダー誘導型先端のレドーム形状であったといいます。
レーダーシーカは目標で反射されてきたレーダー波の入射角を計測しますが、レドームでの屈折により入射角と計測値の関係が歪む為、計測には誤差が生じ、誘導精度に悪影響を及ぼします。
この誤差「レドームエラー」はレドーム形状により異なりますが、レドームエラーの小さい形状としたい (一般に「丸く」したい) 誘導部設計の立場と空気抵抗を低減したい (一般に「鋭く」したい) 空力設計の立場は対立し、双方に妥協した形状となるのが通常です。(製造の容易さ等他の要素も関係してきますが…)
レドームエラーの問題は、K-8が可動式シーカアンテナを搭載し、あらゆる方向から電波が入射する様になった事で初めて認識されるようになったといいます。
K-8やその改良型の飛翔体の図や写真を見ると、ダミー弾等初期は滑らかな流線型であった先端部が後になると鉛筆のような錐形になっており、途中で設計が変更されている事が分かります。

1955年12月に定められたK-8の基本設計では、性能値が以下のとおりとされています。

  • 発射重量275kg
  • 弾頭重量40kg
  • 射程2-8km
  • 目標高度5-18km
  • 目標速度600-1100km/h
  • 目標後方象限からの射撃のみ考慮
  • 撃破確率0.8-0.9

全体重量はSNARS-250をほぼ踏襲した格好ですが、K-6やK-7と比べると2倍弱と際立って大型です。
様々な分野での技術の進歩を反映してか最大射程は弾頭重量が増加したにもかかわらずSNARS-250より長くなっており、6kmであるK-6やK-7のそれも上回っています。
設計が終わると56年には試作品の製造が始まり、工場試験5-20への準備が進められました。

5-20 Заводские испытания

K-8を搭載したYak-25
K-8を搭載したYak-25

試験にはまずテストベッドとして改造されたYak-25が用いられ、後にYak-27Kの生産が始まるとそれらも加わりました。
ミサイルは発射機PU-1-8を介して取り付けられ、胴体とエンジンの間に左右1発ずつ搭載されます。
まずシーカを搭載しないプログラム弾"24A"の試験が56年7月17日から8月4日にかけて行われ、12月29日からは赤外線誘導の24Nの試験に進みました。
24Nの赤外線シーカは段階的に改良されてきたようで、58年5月までは夜間用のS-1-200、次いでS-1-U5-21、最後に昼・夜両用のS-1-D-58 (58年型の意?) と3種類のシーカが試験されたとの事です5-22
この中では曳航標的PM-1、SAB-100-75M (偵察機用フラッシュ爆弾) が目標として用いられた他、距離5-6km、高度9-10kmという条件で無人標的機型Il-28の撃墜も実証しています。
その後10月から59年4月までは次の段階の試験である国家試験5-23が開始され、装備化に適するとの結論を得ています。

5-21 昼間用とする資料とS-1-200の改良型とする資料があります。

5-22 詳細は不明ながら、最初から昼・夜両用のシーカを開発出来ればそれに越したことはないものの、赤外線環境の異なる昼夜に両対応するのは当時はまだ難しかったという事かと思われます。関連性の有無は不明ですが、太陽や雲といった自然の赤外線放射源によるシーカの誤作動は、同世代のアメリカの赤外線誘導ミサイルでも問題になっています。

5-23 Государственные испытания

K-8を搭載したYak-27K
K-8を搭載したYak-27K

レーダー誘導の24Vの工場試験は58年11月から59年8月にかけて、そして24Dの試験もその後の59年11月まで工場試験が行われています。
この中ではレーダーを反射させるためパラシュートに金属箔が張られた曳航標的PM-4109等が使用された他、ここでも距離5-6km、高度9-10kmで無人標的機型Il-28の撃墜が実証されています。
一方もう一つの赤外線誘導型である24Sについては、24Nに比べ進捗が悪かった事から飛行試験に移行する前に開発が中止されています。

開発の進捗、また将来性の面でのK-8の優位が明らかになった為か、57年のうちにはK-6やK-7を搭載することとしていた一連の試作迎撃機、すなわちMiGのI-75やYe-150、スホーイのT-3へのK-8の搭載が検討されはじめていました。
またK-8においてもK-6, K-7同様、開発の途中で既に改良型の開発が始まっていました。
まずU-2の領空侵犯があった56年にはK-6及びK-7同様高高度目標対処能力の付与が求められており、これに対しOKB-4はカナード舵面及びエルロンの面積を拡大した飛翔体"27"で応じました。
58年6月までに発射試験も行われ、所期の成果を収めています。

Su-9-51
Su-9-51

より重要なのが、58年4月16日付の閣僚会議決議第41-198号により開発が開始されたミサイルシステム全体としての改良型、"K-8M"です。
この決議で同時にT-3から発展したスホーイの試作迎撃機T-43 (後のSu-9) を母機とする新型迎撃システムSu-9-515-24を開発する事が決まっていましたが、前述の通り空気取入口の設計変更に伴い大型レーダー・アルマズが搭載出来ず、またT-3用に開発されていた中距離空対空ミサイルシステムであるK-7やK-6の開発も取り止められた結果、小型レーダーTsD-30T (別名RP-9U)5-25とK-5の改良型ミサイルシステムK-515-26で間に合わせるという不本意な結果となっていました。
新世代のシステムを今度こそ実現すべく57年末にはSu-9の改良型の試作迎撃機T-47の計画が始まっており、これに搭載するミサイルシステムのベースとして白羽の矢が立っていたのが、すでに開発が相当進んでいたK-8だったのです。
迎撃機・レーダー・ミサイルからなる迎撃システム全体としての開発も決議第41-198号で正式に開始され、"T-3-8M"という名称が付けられました。
この時K-8はまだ試験の途中でしたが、母機として想定していたYak-27Kが飛行性能の点で既に陳腐化し、生産も試験目的での少数にとどめられる事となっていた事から、開発が完了しても装備化が期待できない状況下にありました。
これ以降もK-8の開発・試験は継続されていますが、そこでは早期実用化よりも改良を優先し、K-8Mのより良い母体とする事を目的に事業が進められたと想像できます。

5-24 公式な開発決定はこの時でしたが、すぐさま試験に移行し、1960年10月15日付の閣僚会議決議により装備化されています。

5-25 開発はKB-1、主任設計者はA.A.コロソフ (Колосов, Андрей Александрович) です。KB-1内部でも空対艦ミサイルの誘導システムを手掛けていた設計チーム (コロソフが率いていたSKB-41の事?) が開発したとの事 で、Kh-20等の対艦ミサイル用アクティブレーダーシーカと関係がある可能性が考えられます。

5-26 К-5、K-5Mに続くK-5の3世代目で、飛翔体RS-2-USを使用するものです。1960年10月10日付の閣僚会議決議1108-460により装備化。

スホーイ公式サイトより、Su-9開発史

以下続刊

inserted by FC2 system